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日本三大盆踊り「郡上おどり」の歴史・中断と復活・踊り納め

2026.10.28 読了 12分

「郡上踊りが禁止されたのはなぜですか」。これは郡上おどりを調べると必ず出てくる質問です。日程を調べても、下駄を調べても、歌詞を調べても出てきます。

答えは記録に残っています。1874年(明治7年)6月、岐阜県布達第119号で「悪習」として禁止されました。 理由は風儀上の問題です。そして禁止はこの1回ではありません。この記事は郡上市の資料から、400年の流れを年号つきで整理します。

3分で説明すると

  • 江戸時代から約400年。城主が士農工商の融和のため村々の盆踊りを城下に集めたとされる
  • ★1874年(明治7年)6月、岐阜県布達第119号で「悪習」として禁止。理由は老幼男女が群集する風儀上の問題
  • 翌1875年に禁止令は解除。制約つきで七大縁日は続いた
  • ★大正7〜8年にも警察署の干渉。大火も重なって3年間中止
  • 1922年(大正11年)に保存会を組織し、翌年に警察署長の承認を得て再開
  • 文化財|1996年に重要無形民俗文化財/2022年にユネスコ無形文化遺産「風流踊」
  • 江戸期にも取締りの記録あり。1862年には藩士の妻子が盆踊に行くことを禁じている

郡上おどりはいつから踊られているか

郡上八幡観光協会は「約400年にわたって歌い踊り継がれてきた」としています。

ただし郡上市の資料は、起源について「発祥や由来には諸説あり、定かではない」とはっきり書いています。在郷の神社・寺院の祭礼、真宗の念仏踊り、風流踊り、伊勢踊り、盆踊り、各地の民謡などが習合して原型になったと考えられている、という書き方です。

曲の起源については、観光協会が「天正年間に伊勢古市の川崎音頭が郡上にもたらされた」という説を挙げています。いまの「かわさき」の名の由来とされる話です。

文献で確かめられるのは1728年(享保13年)です。長谷川忠崇の『濃州志』に、いまの郡上踊の歌詞につながる歌が見られると郡上市の資料にあります。約300年前の文献に歌詞の原型があるということです。

なぜ始まったのか

観光協会はこう説明しています。江戸時代に城主が、士農工商の融和を図るため、藩内の村々で踊られていた盆踊りを城下に集めた。 そして盆の4日間は身分に関係なく踊るよう奨励し、年々盛んになったとされています。

この「盆の4日間」が、いまの徹夜おどり(8月13〜16日)の4夜に重なります。400年前の枠組みが日付として残っている形です。

身分を越えて踊っていたことは、取締りの記録からも裏が取れます。1862年(文久2年)の「諸制改革」で、藩士の妻子や家人が盆踊に行くことを禁じたという記録があるからです。郡上市の資料は、これを町人だけでなく武士階級も踊りに加わっていたことがうかがえると読んでいます。

禁止されたという記録が、そこに何があったかを示しているという構造です。

年表で見る変遷

江戸期|取締りの記録が残る

年 できごと
1728年(享保13年) 『濃州志』に、いまの歌詞につながる歌が見られる
1842年(天保13年) 「御回状留帳」に盆踊の取締りの記述。かぶり物・異風姿・風俗を乱す者を取り締まり、見物人も対象
1862年(文久2年) 「諸制改革」で藩士の妻子や家人が盆踊に行くことを禁じた
1868年(慶応4年) 「留帳」に7月17日・19日の盆踊の記録

1842年の取締りは見物人も対象にしています。踊っている人だけでなく、見ている人まで取り締まる必要があるほどの規模だったということです。

明治|「悪習」として禁止

ここが最も明確な禁止です。

1874年(明治7年)6月、岐阜県布達第119号により、旧来の盆踊は「悪習」として禁止されました。 郡上市の資料は理由を「老幼男女が群集する風儀上の問題」としています。

ただし翌1875年(明治8年)には禁止令が解かれています。『郡上郡史』による記録です。そして制約を受けた中で、七大縁日は毎年の恒例として行われたとあります。

七大縁日はいまも残っています。

  • 7月16日|八坂神社天王祭
  • 8月1日|大乗寺三十番神祭
  • 8月7日|洞泉寺弁天七夕祭
  • 8月14〜16日|盂蘭盆会
  • 8月24日|桝形地蔵祭

いまの30夜の芯にあるのは、禁止令が解かれたあとも続けられたこの日程だということになります。

大正|警察の干渉と3年間の中止

明治の禁止令のあと、もう一度止まっています。

大正7〜8年、踊が多種多様になったことや風紀上の問題から警察署の干渉がありました。 さらに1919年(大正8年)に北町の大火があり、3年間は差し控えられたと郡上市の資料にあります。

そこから立て直すために作られたのが保存会です。

  • 1922年(大正11年)|郡上踊保存会を組織
  • 1923年(大正12年)7月|警察署長と交渉を重ね、承認を得た
  • 1925年(大正14年)|徹夜踊りとなる。踊屋台が造られた

いまの徹夜おどりは、警察の承認を取り直した2年後に生まれた形です。400年の歴史の中では新しいほうになります。

昭和|全国への紹介と曲の整理

保存会ができてから、郡上おどりは外に出ていきます。

  • 1929年(昭和4年)|東京松坂屋で公演。越美南線の郡上八幡駅が開設
  • 1930年(昭和5年)|民謡踊大会に出演。駅踊を創設
  • 1932年(昭和7年)|保存会が八幡町に移管
  • 1933年(昭和8年)|毛付市を縁日踊に、およし祭を日程に追加。変装踊りコンクールの計画
  • 1934年(昭和9年)|免許証の作成が記録される
  • 1935年(昭和10年)頃|囃子方に太鼓・三味線・笛が揃ったと考えられる
  • 1936年(昭和11年)|「さば」と「げんげんばらばら」を追加
  • 1949年(昭和24年)|「さば」を「春駒」と改称

いまの10曲は最初からあったわけではありません。「げんげんばらばら」は昭和11年に加わった曲で、「春駒」は昭和24年に名前が変わっています。

開催夜数も増えています。1923年に12夜、1934年に16夜、1947年に18夜、1952年に26夜、1955年に30夜、1961年には32夜。その後1962年に26夜へ戻り、いまは30夜前後です。

文化財としての指定

年 指定
1955年(昭和30年) 八幡町指定文化財(「かわさき」を除く9曲)
1958年(昭和33年) 岐阜県指定文化財
1973年(昭和48年) 国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択
1996年(平成8年)12月20日 10曲が重要無形民俗文化財に指定
2022年 ユネスコ無形文化遺産「風流踊」に登録

1955年の町指定で「かわさき」だけが外れているのは、この曲が大正時代に古調かわさきをもとに改変された新しいものだからです。1996年の国指定では10曲すべてが入っています。

2022年のユネスコ登録は「風流踊」という41件のまとまりでの登録で、岐阜県からは郡上踊と寒水の掛踊が入っています。

なぜ一度禁止されたのか

記録にある理由をまとめると、一貫して「人が大勢集まること」そのものです。

理由はどの時代も風紀だった

1842年(天保13年)|かぶり物、異風姿、風俗を乱す者を取り締まり。見物人も対象。

1862年(文久2年)|藩士の妻子や家人が行くことを禁止。身分の境が崩れることへの警戒と読めます。

1874年(明治7年)|「悪習」として禁止。理由は老幼男女が群集する風儀上の問題。

大正7〜8年|踊が多種多様になったことと風紀上の問題から警察署の干渉。

大正の干渉がいまの形を作った

注目したいのは大正の理由です。「踊が多種多様になった」ことが問題にされています。自由に広がったこと自体が干渉の対象になりました。

そして保存会ができ、曲が整理されていきます。いまの「10曲」という形は、干渉を受けて整えた結果でもあるということになります。

禁じられた側が保存会を作り、警察署長と交渉して承認を取り、その2年後に徹夜おどりを始める。止められるたびに形を整えて戻ってきたのが、この祭の歴史です。

日本三大盆踊りの中での位置

郡上おどりは「日本三大盆踊り」のひとつと紹介されることがあります。残り2つは秋田の西馬音内の盆踊、徳島の阿波踊りとされるのが一般的です。

ただし正直に書くと、「日本三大盆踊り」を定義した公式の出典は見つかりませんでした。郡上八幡観光協会にも郡上市にも岐阜県にも、この定義の記載はありません。旅行メディアと報道で使われている呼び方です。

公式に確認できる位置づけ

  • 1996年に重要無形民俗文化財(国指定)
  • 2022年にユネスコ無形文化遺産「風流踊」
  • 毎年30万人以上が集まる(岐阜県観光連盟)
  • 7月中旬から9月上旬まで30夜という開催日数

「三大」より、30夜という長さと、誰でも輪に入れるという性格のほうが、この祭を言い表しています。

「誰とでも踊る」という性格はどこから来たか

郡上おどりは「見るおどり」ではなく「踊るおどり」と呼ばれます。観光協会は「踊りに必要な衣装はなく、誰でも気軽に参加できる」としています。

この性格は、成り立ちそのものです。城主が士農工商の融和を図るために城下へ集め、盆の4日間は身分に関係なく踊るよう奨励した。つまり最初から「誰とでも踊る」ために設計された祭です。

形にも表れています。郡上市の資料によると、音頭取りと囃子方が踊屋台に上がり、その周囲を踊り手が輪になって踊る「輪踊り」です。ステージがあって観客席があるのではなく、中心に屋台、周りに輪。入る場所が決まっていないので、誰でも途中から加われます。

そして男女とも同じおどりで、男性の踊り手も多いと観光協会は書いています。

うまい人には保存会が免許状を出します。毎晩10時ごろに課題曲が屋形に表示され、保存会員が審査する。合格すると木の札が渡され、保存会事務所で墨字の免許状と交換されます。10数年前までは有料で公布されていましたが、いまは審査による公布のみです。

免許状が観光客にも交付されるようになったのは1960年頃(昭和35年頃)からです。地元の人だけのものにしなかったという選択が、ここにも出ています。

歴史を知ってから踊ると何が違うか

3つ変わります。

1|徹夜おどりの4夜の意味。 盂蘭盆会の8月13〜16日は、城主が「盆の4日間は身分に関係なく踊れ」とした枠そのものです。400年前の4日間が、いまも4夜として残っている。

2|始まりと終わりの曲。 徹夜おどりは鳴り物なしの「古調かわさき」で始まり、明け方の「まつさか」で終わります。古調かわさきは1955年の町指定で「かわさき」が外れたときに入っていた9曲の筆頭、つまり原型とされる曲です。その原型を、楽器を入れずに最初に踊る。

3|10曲という数。 最初から10曲だったのではなく、昭和11年に2曲追加され、昭和24年に1曲が改称されていまの形になりました。そして大正の干渉を受けて整理された結果でもあります。

→ 郡上おどりの歌詞と意味|10曲と春駒・げんげんばらばら

よくある質問

Q. 郡上踊りが禁止されたのはなぜですか
1874年(明治7年)6月、岐阜県布達第119号で旧来の盆踊が「悪習」として禁止されました。理由は老幼男女が群集する風儀上の問題です。翌1875年に解かれています。

Q. 禁止は1回だけですか
いいえ。江戸期にも1842年に取締り、1862年に藩士の妻子への禁止があります。大正7〜8年にも警察署の干渉があり、大火も重なって3年間中止になりました。

Q. いつから踊られているのですか
観光協会は約400年としています。ただし郡上市の資料は「発祥や由来には諸説あり、定かではない」としています。文献では1728年(享保13年)の『濃州志』に歌詞の原型があります。

Q. なぜ始まったのですか
江戸時代に城主が士農工商の融和を図るため、藩内の村々の盆踊りを城下に集めたとされています。盆の4日間は身分に関係なく踊るよう奨励しました。

Q. 文化財にはいつ指定されましたか
1955年に八幡町指定、1958年に岐阜県指定、1973年に国の記録選択、1996年12月20日に10曲が重要無形民俗文化財、2022年にユネスコ無形文化遺産「風流踊」です。

Q. 徹夜おどりはいつからですか
1925年(大正14年)以降です。3年間の中止から立て直し、保存会が警察署長の承認を得た2年後にあたります。

Q. 日本三大盆踊りの定義はありますか
定義した公式の出典は見つかりませんでした。郡上八幡観光協会・郡上市・岐阜県のいずれにも記載がありません。旅行メディアと報道で使われている呼び方です。

まとめ|400年の流れ

  • 起源は諸説あり定かではない(郡上市)。文献では1728年の『濃州志』に歌詞の原型
  • 城主が士農工商の融和のため城下に集め、盆の4日間は身分に関係なく踊らせた
  • ★1874年(明治7年)岐阜県布達第119号で「悪習」として禁止。理由は風儀上の問題。翌年解除
  • ★大正7〜8年にも警察の干渉+北町の大火で3年間中止
  • 1922年に保存会を組織、1923年に警察署長の承認、1925年に徹夜おどりの形に
  • 曲|1936年に「さば」「げんげんばらばら」追加、1949年に「さば」→「春駒」
  • 文化財|1955年町指定(9曲)/1958年県指定/1973年国の記録選択/1996年重要無形民俗文化財(10曲)/2022年ユネスコ
  • 「日本三大盆踊り」に公式の定義はない

400年前の「盆の4日間」が、いまも徹夜おどりの8月13〜16日として残っています。この4夜だけは日付が動かないので、先に押さえられます。

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この記事の情報は2026年10月20日時点で、郡上市「歴史的風致維持向上計画」第2章(郡上踊にみる歴史的風致)、郡上八幡観光協会の「郡上おどり」「令和8年度(2026)郡上おどり日程」、岐阜県観光連盟の郡上おどりのページを確認したものです。年号と文化財の指定年は郡上市の資料によるものです。

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