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相馬野馬追の歴史はどこまでが伝説?読み方と千年の由来

2026.10.28 読了 12分

相馬野馬追は「一千有余年」と紹介される祭です。ただ、1000年前から今と同じことをしていたわけではありません。

この記事では、公式サイトが書いていることと、書いていないことを分けながら歴史をたどります。どこまでが伝説で、どこからが記録なのかが見えると、当日に見るものの意味が変わります。

3分で説明すると

  • 読み方は「そうまのまおい」
  • 公式が書く起源は、平将門が下総国小金ヶ原(今の千葉県北西部)に放った野馬を、軍事訓練に使ったこと
  • 将門は940年に亡くなり、その後数代は行われなかったと公式が書いている
  • 相馬家が東北に来たのは1323年。第6代 相馬重胤の下向
  • 今の雲雀ヶ原は、第19代 相馬忠胤が整備した牧の一部
  • 相馬家の氏神は妙見。相馬三社(太田・小高・中村神社)の祭礼として続いている
  • 東日本大震災と原発事故のあとも規模を縮小して開催。2015年に震災後初めて観光客20万人
  • いまも収支は赤字だと公式が書いている
  • 2024年から7月開催が5月に移った。理由は猛暑対策

読み方は「そうまのまおい」

「野馬追」と書いて「のまおい」です。野に放たれた馬を追う、という字のとおりの行事名になります。

紛らわしいのは「追う」の部分です。いまの相馬野馬追で実際に馬を追って捕らえるのは、3日目の野馬懸(のまがけ)だけです。2日目の甲冑競馬と神旗争奪戦は、馬を追う行事ではありません。

祭の名前になっている「野馬を追う」という行為は、3日間のうち最終日の午前中に、小高神社の境内で行われます。

いつから続いているか

公式サイトの歴史のページは、平安時代中期から始まります。

公式が書く起源は平将門

平将門(相馬小次郎)が、下総国葛飾郡小金ヶ原──現在の千葉県松戸・流山付近──で野馬を捕らえ、御神馬として神前に奉納したことが由来とされています。

公式の「ご支援のお願い」のページでは、もう少し具体的にこう書かれています。軍事訓練として野生の馬を放ち、捕らえた馬を神前に奉じて妙見の祭礼を行ったのが始まりである、と。

つまり最初から「軍事訓練」と「神事」の両方だった、という説明になっています。

『相家故事秘要集』に記されていること

相馬家に伝わる『相家故事秘要集』に、将門が小金ヶ原に馬を放ち、周辺諸国の兵を集めて軍事訓練を行ったことが記されている、と公式は書いています。

野馬を敵兵に見立てて追う。それが訓練だった、という形です。いまの神旗争奪戦で数百騎が一斉に駆け出す光景は、この起源から来ていると考えると筋が通ります。

将門の死後、数代は行われなかった

ここは見落とされやすいところです。公式はこう書いています。

将門は940年に亡くなり、その後数代の間は野馬追が行われなかったとされています。

「1000年続く」と言っても、連続して続いてきたわけではありません。始まりの直後に、すでに途切れています。

相馬家が東北に来るまで

野馬追が再開されるのは平安時代の後期です。

相馬師常と「旧暦五月中の申の日」

相馬家初代当主の相馬師常(千葉常胤の次男)が養子として家督を継いだあと、旧暦五月中の申の日に野馬追が再開されたと言われています。公式も「諸説あり」と添えています。

この「旧暦五月」は、2024年からの5月開催と月の名前が一致します。ただし旧暦の五月は今の暦では6月ごろなので、同じ時期ではありません。偶然の一致として読むのが正確だと思います。

1323年、相馬重胤の下向

年号が出てくるのはここからです。

1323年、第6代当主の相馬重胤が陸奥国行方郡太田村(現在の南相馬市原町区中太田)に下向しました。

この土地は、奥州合戦(1189年)の褒美として千葉常胤が源頼朝から与えられたものです。130年以上あとになって、子孫が実際に移り住んだことになります。

重胤は別所の館を経て小高城に移りました。太田村近くの原野では、野馬追の故事にならって以後も断続的に馬を放ち続けた、と公式は書いています。

1600年、牛越城下の野馬懸と関ヶ原

もうひとつ、年号が出てくる場面があります。

1600年、牛越城下で野馬懸を行っていた際に、関ヶ原合戦の報告を受けたと伝わっています。

戦国の終わりに、相馬の地では野馬懸が行われていた。そういう記録です。ただし公式も「資料は乏しく詳細は不明」と断っています。

今の形になったのは江戸時代

相馬野馬追が「いまの姿」に近づくのは、江戸期に入ってからです。

居城が中村城へ移る

江戸時代に相馬氏は居城を中村城へ移しました。ここが明治まで相馬氏の居城になります。

中村城跡は、いまの相馬中村神社です。1日目の出陣式が行われ、総大将を擁するため三社のなかでとりわけ厳かだと公式が書いている、あの場所になります。

第19代 相馬忠胤が牧を整備した

公式がはっきり「現在の相馬野馬追の姿が見え始めた」とするのが、この時期です。

第19代当主の相馬忠胤が、放馬を続けてきた原野に牧を整備し、そこで野馬追を行うことにしました。現在の雲雀ヶ原祭場地は、その一部です。

2日目に甲冑競馬と神旗争奪戦が行われる場所は、江戸期に整備された牧の跡ということになります。

なぜ「妙見」なのか

相馬家の氏神は妙見です。

そして相馬野馬追は、妙見を祀る相馬三社(相馬太田神社・相馬小高神社・相馬中村神社)の祭礼として受け継がれています。

1日目に騎馬が三社に分かれて集まり、それぞれ出陣式を行うのは、この三社の祭礼だからです。藩政時代の行政区に基づいて郷が分かれている、と公式は説明しています。

2025年の総大将は出陣の訓示でこう述べています。「宇多郷勢は妙見尊のご加護のもと、全員が威風堂々出馬されるよう希望する」。いまも妙見の名で祭が動いていることが分かる一節です。

明治以降、公式が書いていること

ここから先は、公式サイトの記述が急に短くなります。

明治時代に武家社会が終わると、相馬家の年中行事としての野馬追は行えなくなりました。野馬追原に放牧されていた馬が捕獲されるなどの出来事もあった、と書かれています。

そのうえで、「相馬三社の祭礼として、多くの困難を乗り越えながら今日まで継承されています」と結ばれています。

明治から戦後までのあいだに何があったかは、公式の歴史ページには書かれていません。この記事でも、裏の取れない年号は書きません。

東日本大震災と原発事故のあと

近年の出来事については、公式の「ご支援のお願い」のページに記述があります。

規模を縮小して開催した

2011年3月11日の東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故で、相馬地方も大きな被害を受けました。

公式はこう書いています。開催が危ぶまれたが、全国からの支援と関係者の努力により、規模を縮小して開催された。

3日目の野馬懸が行われる相馬小高神社は、小高区にあります。避難指示の対象になった地域です。

2015年に震災後初めて観光客20万人

回復の目印として公式が挙げているのが、この数字です。

常磐自動車道の全面開通があった2015年に、震災後初めて観光客数が20万人を記録しました。

高速道路がつながったことと来場者が戻ったことが、同じ年に起きています。

いまも収支は赤字

ここは公式がはっきり書いているので、そのまま引きます。

震災後は、破損した施設の修復費用、資材・人件費の高騰による委託費の増加、駐車場から会場までの無料シャトルバスの運行などで支出が増えました。開催費用は震災以前より増え、現在は収支が赤字の状態です。

公式はグッズ販売(SUZURI)、ふるさと納税、直接寄付の3つで支援を募っています。ふるさと納税については、寄付金の3分の1が執行委員会へ、3分の2が各市町村の相馬野馬追関連事業の財源になると明記されています。

観覧券が2日目だけ有料で、1日目と3日目は観覧券の案内がない。その構造の裏側には、この収支があります。

7月から5月へ(2024年)

直近の大きな変化がこれです。

2023年7月の大会で、最高気温が35度を超えた7月29日と30日に、熱中症などで馬111頭が救護され、そのうち2頭が死亡しました。出陣した馬は361頭で、8割以上が元競走馬でした。

執行委員会は2023年8月7日の記者会見でこの2頭の死を発表し、同年8月27日の第2回日程変更検討会で5月開催とすることが決まり、11月3日の執行委員会総会で正式決定しました。

国の指定を受けている行事なので、文化庁や保存会との協議が必要でした。方向が決まってから正式決定まで3か月かかっているのは、その手続きのためです。

現在の規則は「毎年5月の最終土・日・月曜日の3日間」。日程の詳しい話は 相馬野馬追2027の日程 にまとめました。

相馬家は現在どうなっているか

よく聞かれる点です。相馬家は続いています。

相馬市の公式ページによると、2025年の総大将は、相馬家33代当主・相馬和胤(かずたね)氏の孫である言胤(としたね)氏でした。

総大将は1日目に相馬中村神社で出陣式を行い、お行列では先祖伝来の甲冑を着けて騎馬を率います。祭の中心に相馬家の当主家がいるという形が、いまも残っているということです。

公式の見どころのページには、お繰り出しの場面でこう書かれています。総大将からの伝言は早馬によって逐一届けられ、北郷陣屋には緊張感が漂う、と。携帯電話ではなく早馬で伝える、という段取りが演出ではなく進行として組まれています。

甲冑と旗はどこから来るのか

公式サイトの表現を並べると、はっきりします。

  • お行列|「先祖伝来の甲冑」を身につけた約400騎
  • 甲冑競馬|「先祖伝来の旗指物」を風になびかせる

どちらも「先祖伝来」です。つまり祭のために作った衣装ではなく、家ごとに伝わってきたものを着て出ている、という説明になります。

甲冑競馬では、騎乗する若武者は兜を脱いで白い鉢巻を締めます。そして大坪流の手綱さばきに従って馬を操ります。鉢巻に替えるのは速く走るためですが、甲冑そのものは着けたままです。

旗指物は家ごとに違います。400騎それぞれに違う旗が並ぶ、という見え方になります。

歴史を知ってから見ると何が違うか

3つあると思います。

見るもの 歴史を知らないと 知っていると
1日目の三社に分かれた出陣式 同じ行事が3か所であるだけに見える 妙見を祀る相馬三社の祭礼であり、藩政時代の郷の区分が残っている
2日目の雲雀ヶ原 広い原っぱ 第19代 相馬忠胤が整備した牧の一部
3日目の野馬懸 馬を捕まえる神事 「野馬追」という名前そのものの行為。公式が「昔の名残をとどめる唯一の神事」と書く

とくに3日目です。甲冑競馬と神旗争奪戦は迫力のある見世物ですが、祭の名前になっている行為をしているのは野馬懸のほうです。公式も、この行事が国の重要無形民俗文化財に指定される重要な要因になったと書いています。

そして野馬懸には観覧券の案内がありません。無料で見られます。

よくある質問

相馬氏の末裔は誰ですか

相馬家は33代当主・相馬和胤氏の家系が続いています。2025年の総大将は、その孫にあたる相馬言胤氏でした(相馬市の公式ページ)。2026年の総大将が誰かは、この記事では確認できていません。

本当に1000年続いているのですか

公式は「一千有余年の歴史」と書いています。ただし公式自身が、将門の死後は数代のあいだ行われなかったこと、相馬師常による再開には諸説あること、1600年前後は資料が乏しく詳細は不明であることを書いています。

連続して1000年というより、途切れながら1000年のあいだ受け継がれてきた、という読み方が公式の記述には合っています。

なぜ5月に開催されるのですか

猛暑対策です。2023年7月の大会で馬111頭が救護され2頭が死亡し、同年11月3日の執行委員会総会で5月開催が正式決定されました。2024年から5月の最終土・日・月曜日になっています。

国の重要無形民俗文化財ですか

はい。公式が野馬懸のページで、この行事が「国の重要無形民俗文化財に指定される重要な要因となりました」と書いています。指定の年月日は公式サイトには記載がないため、この記事では年を書きません。

野馬追の馬はどこから来るのですか

2023年の大会で出陣した361頭のうち、8割以上が元競走馬だったと報じられています。競走馬を引退した馬が、野馬追の騎馬として走っていることになります。

まとめ|歴史の要点

  • 読み方は「そうまのまおい」。名前どおり馬を追うのは3日目の野馬懸
  • 公式が書く起源は平将門が小金ヶ原に放った野馬。軍事訓練と妙見の祭礼の両方だった
  • 将門は940年に没し、その後数代は行われなかったと公式が書いている
  • 相馬家が東北へ来たのは1323年。第6代 相馬重胤の下向
  • 1600年、牛越城下で野馬懸の最中に関ヶ原の報告を受けたと伝わる
  • 今の形になったのは江戸期。第19代 相馬忠胤が整備した牧が、いまの雲雀ヶ原
  • 氏神は妙見。相馬三社の祭礼として続いている
  • 明治に武家社会が終わり、相馬家の年中行事としては行えなくなった
  • 震災と原発事故のあとも規模を縮小して開催。2015年に震災後初の観光客20万人
  • 現在も収支は赤字だと公式が書いている
  • 2024年から5月開催。2023年7月の猛暑で馬111頭が救護され2頭が死亡したことが契機

1日目の出陣式は相馬市、2日目の雲雀ヶ原は南相馬市原町区、3日目の野馬懸は小高区です。歴史をたどって見るなら、3日間の会場を移動することになります。

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→ 相馬野馬追2027の日程

この記事の情報は2026年10月26日時点のものです。相馬野馬追公式サイトの「歴史」「相馬野馬追について」「見どころ(お行列・甲冑競馬・神旗争奪戦・お繰り出し・野馬懸)」「ご支援のお願い」「よくあるご質問」と、相馬市「【2025年5月23日】相馬野馬追の無事を祈る 出陣安全祈願祭と総大将出陣祝いの宴」を確認しました。2023年の馬の救護頭数・死亡と出陣頭数については、Number Web(2023年8月26日・島田明宏)の報道を参照しています。国の重要無形民俗文化財であることは公式に記載がありますが、指定年月日は公式サイトに記載がないため書いていません。明治から戦後までの経緯も、公式サイトに記述がないため年号を書いていません。

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