祇園祭は7月1日から31日までの1か月続く八坂神社の祭礼です。山鉾巡行で知られていますが、始まりは山鉾ではありませんでした。
京都市観光協会の案内によると、始まりは貞観11年(869年)。疫病が流行したときに当時の国の数にならって66本の矛を立て、祇園社の神輿を神泉苑へ送って悪疫を封じた——これが祇園祭の起点とされています。
3分で説明すると
- 869年、疫病が流行した。66本の矛を立て、祇園社の神輿を神泉苑へ送って疫病を封じた
- 最初は疫病が流行したときだけの不定期。970年から毎年行われるようになった
- 最初は巨大な剣鉾を担いでいた。南北朝時代ごろから山車の形に変わった
- 室町時代、町衆が豪華な懸装品で飾るようになった
- 応仁・文明の乱や江戸の大火で山鉾を焼失。中断するたびに京の人々が再興した
- 1966年から2013年は前祭と後祭を7月17日に合同で巡行。2014年に後祭の巡行が復活した
ひとことで言えば、疫病を鎮めるための神事が1100年以上続き、途切れるたびに町の人が建て直してきた祭です。
祇園祭は八坂神社の祭礼
祇園祭は八坂神社の祭礼です。山鉾は町が出すものですが、祭そのものは神社の行事です。
これが構造を決めています。神輿(八坂神社の神事)と山鉾(町衆の行事)という2つの系統が同じ祭の中にあります。7月17日と24日は、山鉾が午前に動き、神輿が夕方から動きます。神輿については 祇園祭の神輿渡御 にまとめました。
始まりは869年|66本の矛を立てた
京都市観光協会の案内では、貞観11年(869年)、疫病が京や各地で流行した際に、当時の国の数にならって66本の矛を立て、祇園社の神輿を神泉苑へ送って悪疫を封じたのが始まりとされています。
祇園社の隆盛とともに「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」と呼ばれ、やがて略して「祇園会(ぎおんえ)」と呼ばれるようになりました。
その6年前に神泉苑で御霊会があった(863年)
869年の前に前段があります。貞観5年(863年)、神泉苑で「御霊会」という神事が行われました。
祇園祭の起点を869年とするのは、祇園社の神輿が神泉苑へ送られたからです。863年の御霊会が先にあり、その6年後に祇園社が結びついた、という順番になります。
発祥の地を1か所に絞るのは難しいのがここです。祇園社(現在の八坂神社)と神泉苑の両方が関わっています。
66本は当時の国の数
「なぜ66本だったのか」には答えがあります。当時の国の数にならったからです。
疫病は京だけの問題ではなく、各地で流行していました。だから全国の国の数だけ矛を立てるという形を取りました。京の祭でありながら、最初から全国を対象にした祈りだったということです。
この数え方は、現在の山鉾の数(34基)とは関係ありません。66本は矛の数で、山鉾の数ではありません。山鉾の構造は 祇園祭の山鉾一覧 にまとめました。
なぜ疫病に祭で対したのか|御霊信仰
現代の感覚では、疫病に矛を立てるのは理解しにくいところです。背景にあるのは御霊信仰です。
京都市観光協会の説明では、非業の死を遂げた人々の霊が疫病をもたらすという信仰に基づき、霊を鎮めて都の外へ送る祭礼として御霊会が行われました。
つまり疫病の原因を霊に求め、その霊を鎮めて外へ送り出すという考え方です。神輿を神泉苑へ送ったのも、この「送る」という行為にあたります。
祇園祭の各所に残る厄除けの形も、同じ発想の上にあります。厄除け粽の由来は、素戔嗚尊が蘇民将来の家に泊めてもらったお礼に「その子孫は疫病から免れる」と約束し、目印として茅の輪を腰に付けさせた話です(祇園祭のちまき)。
最初は毎年ではなかった|970年から毎年に
いまは毎年7月に行われますが、最初は不定期でした。
京都市観光協会の案内によると、当初は疫病の流行時だけ行われ、天禄元年(970年)から毎年6月14日に行われるようになりました。
| 時期 | 開催 |
|---|---|
| 869年〜 | 疫病の流行時だけ(不定期) |
| 970年〜 | 毎年6月14日 |
| 現在 | 毎年7月1日〜31日 |
869年から970年までの約100年は、疫病が出たときに行う臨時の神事でした。定例化したのはそのあとです。
剣鉾から山車へ|南北朝時代の転換
いまの山鉾の形になるまでに、大きな転換があります。
京都市観光協会の案内では、当初は巨大な剣鉾を行列で担いでいたとされます。それが南北朝時代ごろから山車の形に変わりました。
869年に立てた「66本の矛」が、担ぐ剣鉾になり、車輪のついた山車になった。いまの鉾の頂部に真木と鉾頭があるのは、この矛の名残として見ることができます。
室町時代の「風流」|町衆が懸装品で飾った
山車の形になったあと、飾りが発達します。京都市観光協会の案内によると、室町時代には、力を持ってきた町衆が豪華な懸装品で飾るようになり、こうした趣向を凝らした造り物や芸能は「風流(ふりゅう)」と呼ばれました。
ここが祇園祭の性格を決めた転換点です。神事としての祭に、町衆の財力と美意識が重なった。山鉾が「動く美術館」と呼ばれるのは、この時期に始まった飾りの伝統によるものです。懸装品は 祇園祭のタペストリー にまとめました。
応仁の乱と大火|焼けるたびに町衆が再興した
祇園祭は一度も途切れずに続いてきたわけではありません。
京都市観光協会の案内では、応仁・文明の乱や江戸の大火で山鉾を焼失し、たびたび中断もしたが、そのたびに京の人々によって再興されてきたと説明されています。
焼失と再興の繰り返しが祇園祭の歴史です。1100年以上続いているという言い方は、途切れなかったという意味ではなく、途切れるたびに建て直されたという意味です。
後祭が復活したのは2014年|48年ぶり
近年にも大きな変化がありました。後祭の山鉾巡行が復活したのは2014年(平成26年)です。
1966年から2013年は7月17日に合同巡行だった
京都市観光協会の案内によると、1966年(昭和41年)から2013年(平成25年)までは、前祭と後祭の山鉾を7月17日に合同で巡行していました。
| 時期 | 巡行の形 |
|---|---|
| 〜1965年 | 前祭と後祭の2回 |
| 1966年〜2013年 | 7月17日に合同で1回 |
| 2014年〜 | 前祭7月17日・後祭7月24日の2回に戻る |
つまり48年間、後祭の巡行は行われていませんでした。2014年の復活で「古くからの二つの巡行の形が取り戻されている」と説明されています。
これは実務的にも意味があります。2013年以前の祇園祭の記録や体験談は、巡行が1回だった時代のものです。「昔行ったときは」という話が現在と合わないことがあります。前祭と後祭の違いは 祇園祭の前祭と後祭の違い にまとめました。
文化財としての祇園祭|1979年と2009年
祇園祭の山鉾行事は、2段階で公的に位置づけられています。
- 1979年(昭和54年):山鉾行事が国の重要無形民俗文化財に指定
- 2009年(平成21年):ユネスコの無形文化遺産に登録
注目したいのは、指定されているのが「山鉾行事」だということです。山鉾という物ではなく、山鉾を建てて巡行させる一連の行為が対象になっています。
毎年組み立てて、巡行が終われば解体する。この繰り返しそのものが文化財だ、という位置づけです。
なぜ1か月も続くのか
山鉾巡行は7月17日と24日の2日です。それなのに祭は1か月続きます。
京都市観光協会の説明では、元来、祭りは疫病や災厄を鎮めるための神事であり、夏の時期に多くの祓いや神事を重ねてきたことが背景にあるとされています。
つまり巡行は1か月の神事のうちの一部です。巡行を中心に考えると1か月は長すぎますが、夏のあいだ祓いを続けるという発想で見れば、巡行はその中の大きな山場ということになります。
7月1日の吉符入から31日の疫神社夏越祭まで
1か月の始まりと終わりには、それぞれ行事があります。
- 7月1日「吉符入(きっぷいり)」:祭の始まりを告げる行事
- 7月31日「疫神社夏越祭(えきじんじゃなごしさい)」:祭の最後の行事
どちらも山鉾巡行のような大きな見せ場ではありません。ただしこの2つの日付があることが、祇園祭が1か月の祭だという事実そのものです。日程の全体像は 祇園祭の日程 にまとめました。
歴史を知ると何が変わるか
変わるのは山鉾の頂部の見え方です。
鉾の屋根からは真木が立ち、その先端に鉾頭が付きます。これは869年に立てた「66本の矛」の形を受け継いだものとして見ることができます。巨大な剣鉾を担いでいた時代から、車輪のついた山車に変わっても、頂部に高く突き出すという形だけは残ったということです。
鉾の高さは地上から鉾頭まで約25m。重さは約7〜9トン、巡行時には約8.5〜12トンになります。この規模のものを人力で動かす理由は、見せるためではなく、疫病を鎮めるためだったところから始まっています。
厄除け粽の由来とつながる
祭の各所にある厄除けの形も、同じ発想です。厄除け粽は食べ物ではなく、門口など目に入りやすい場所に掲げ、翌年の祇園祭で取り替えます。
由来は素戔嗚尊と蘇民将来の話で、目印として茅の輪を腰に付けさせたことが起源とされています。「目印」という役割が、掲げる場所の指定(目に入りやすい場所)に受け継がれています。
疫病を鎮める神事として始まり、疫病から免れる目印を家に掲げる。1100年前の考え方が、いま売られている粽の扱い方にまで続いているということです。
よくある質問
Q. 祇園祭を簡単に説明するとどうなりますか?
A. 869年に疫病が流行したとき、当時の国の数にならって66本の矛を立て、祇園社の神輿を神泉苑へ送って疫病を封じたのが始まりです。最初は不定期で、970年から毎年行われるようになりました。巨大な剣鉾を担ぐ形から南北朝時代ごろに山車へ変わり、室町時代に町衆が豪華な懸装品で飾るようになりました。
Q. どうして始まったのですか?
A. 疫病を鎮めるためです。非業の死を遂げた人々の霊が疫病をもたらすという御霊信仰に基づき、霊を鎮めて都の外へ送る祭礼として行われました。
Q. 発祥の地はどこですか?
A. 1か所に絞るのは難しいところです。863年に神泉苑で御霊会が行われ、869年に祇園社(現在の八坂神社)の神輿が神泉苑へ送られたのが祇園祭の起点とされています。両方が関わっています。
Q. 祇園祭の謎は何ですか?
A. よく挙がるのは「なぜ66本だったのか」「なぜ1か月続くのか」です。66本は当時の国の数にならったもの、1か月続くのは夏の時期に多くの祓いや神事を重ねてきた背景があるためと説明されています。
Q. 後祭はいつ復活したのですか?
A. 2014年(平成26年)です。1966年から2013年までは前祭と後祭の山鉾を7月17日に合同で巡行していました。48年ぶりに2回の巡行の形に戻っています。
まとめ|歴史の押さえ方
- 869年、疫病の流行時に66本の矛を立て、祇園社の神輿を神泉苑へ送ったのが始まり
- 66本は当時の国の数。京だけでなく全国を対象にした祈りだった
- 背景は御霊信仰。霊を鎮めて都の外へ送るという考え方
- 970年から毎年に。南北朝時代ごろに剣鉾から山車へ。室町時代に町衆が懸装品で飾った
- 応仁・文明の乱や大火で焼失しても、京の人々が再興してきた
- 後祭の巡行は1966年から2013年まで休止し、2014年に48年ぶりに復活した
- 1979年に国の重要無形民俗文化財、2009年にユネスコ無形文化遺産
見に行く前に確認すること
- 鉾の屋根の上(真木と鉾頭は869年の矛の名残)
- 神輿の行事も見るか(山鉾は町衆、神輿は八坂神社の神事)
- 2013年以前の体験談は巡行が1回だった時代のものだと知っておく
- 厄除け粽を受けるなら宵山の期間(年に6日だけ)
日程は 祇園祭の日程、宵山は 祇園祭の宵山、見どころは 祇園祭の見どころ、全国の祇園祭は 全国の祇園祭 も参考にしてください。
この記事の情報は2026年10月18日時点で、京都市観光協会の「祇園祭」「祇園祭を知る」「祇園祭に行こう」、祇園祭宵山会議(京都府・京都市・八坂神社・祇園祭協賛会・祇園祭山鉾連合会ほか)の「祇園祭 宵山ガイド(WEB版)2026」を確認したものです。
