人生、そのもの阿呆連 高張 五十四年を歩んだ人にきく、巡り着いた金言

徳島の夏は、蒸し暑い。その蒸し暑さの中、八月の本番に向けて六月から毎晩、練習を続けている連がある。阿呆連だ。
数年、この連を見てきた。そのうちに、ひとつの問いがよぎった。連とは、なにでできているのか。
その答えを出すために、連をひとつずつ分解して、そこにいる一人ひとりに目を向けていく。そのひとは、なにでできているのか、と問いながら、ここにあるもの、の本質を解いていく。
今回の一人は、この連を五十四年、見てきた人だ。十六歳で入り、いま七十歳。団子も、松も、いまの阿呆連にあるものの多くを作ってきた、その時代を知る人だ。そして――いちばん最初に立った場所、高張へ、いま、還ってきている。
阿呆連とは
阿呆連は、徳島市の阿波おどり振興協会に所属する有名連のひとつ。一九四八年に結成された、低く前傾して豪快に舞う「阿呆調」の本家だ。
右肩の破れ傘を目印に、いまは約百四十名で踊り継いでいる。
阿呆連の顔ぶれ
連は、男踊り、女踊り、そして囃子を担う鳴り物でできている。その一角を一役ずつ取り出し、十数名に話を聞いていく。
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副連長次の世代を、育てる→ 読む
鉦全体のテンポをとる→ 読む
笛澄んだ音で主旋律を→ 読む
団子・松大勢でひとつの形に→ 読む
三味線旋律に厚みを重ねる→ 読む
大太鼓低音で土台をつくる→ 読む
竹正解のない、効果音の一打→ 読む
奴凧(糸引き)先頭で糸を引く、連なる一団→ 読む
奴凧凧のように舞う、男踊りの主役→ 読む
女踊り全員が揃って、ひとつに→ 読む
今回の記事前副連長連を、支えてきた
現連長連を、まとめる近日公開
高張提灯とは ― 連の名を掲げ、先頭を行く

高張提灯は、連の名を記した大きな提灯を、長い竿の先に高く掲げたもの。行列の先頭を進み、連の目印となる(以下、高張と呼ぶ)。掲げて歩くには、相応の背丈と力がいる。
桟敷の観客席のずっと上に掲げられるから、遠くからでもよく見える。観客は、その名を見て、次に来る連を知る。踊りが始まる前に、まず連の存在を告げるもの――高張は、連の顔であり、象徴だ。
本人に、聞く
高張から、始まった
話は、五十四年前へさかのぼる。十六歳、高校二年で入った。いちばん最初に持たされたのが、高張だった。
入った頃の高張は、どんな役でしたか?
「じっと持って、前に動いとれ」って言われた。なんでか知らんけど、それでええ、と。何の面白みもないんやけど、とにかく、そういうことで動いてくれ、って。
高張を持っている間は、どんな気持ちでしたか?
高張を持ったら、踊れんやん。「誰か持ってくれんかな、自分は踊れるのにな」って。本当に、持ってほしかった。新人は二年ぐらい、太鼓運びと高張と、下働きみたいなもんやった。それでも「前に出してくれ」って、必死に練習した。上手になろうと思って。
何の面白みもないんやけど
踊りで、負けない
三年目、新人が入って、ようやく高張を代われた。踊れる。嬉しくて、前へ前へ出て、怒られた。
「なんでおまえ、前ばっかり行くんだ」って。「前行きたかったら、高張の後ろで踊れ」と。高張が一番前で、次が女踊り。その間で、一人だけ踊らされて行け、って。「はい、楽しんで行きまーす」って、一人で。そこで十年ぐらい、おったな。
そこで、何を覚えましたか?
だいぶ、踊りが上手になった。あと、顔ができた。どんだけ苦しくても、笑う。そのコツを覚えたな。やっこもやりよったから、先頭で踊りきって、やっこをやって、また先頭に戻って。もう、踊りっぱなしよ。だから、力の配分も考え出さなしゃあない。「ここは上手に見せないかん」ってとこは見せて、それ以外は力を抜く。そうせな、桟敷は踊りきれんかった。
どんだけ苦しくても、笑う
なかったものを、つくる
五年目には、踊りは誰にも負けん、というつもりになっていた。次は、演出。阿呆連は人数が少ない。でも、負けたくない。よそがやってないものを、独自につくろう、と。
武士の踊りをしよった。「武士は食わねど高楊枝」。なんぼでも、ええ踊りをしよう。阿呆連にしかないものを、つくっていこう、って。
阿呆連の名物「団子」は、ある夏、偶然に生まれた。
東新町のアーケードを抜けよった時、向こうから大学生の連が来た。デモみたいに、かき鳴らして来る。普通の踊りじゃ、とても抜けれん。ほんで「集まろう」って固まって、「やっさ、やっさ」って、神輿を担ぐみたいに抜けていったら――これが、雰囲気よかった。考えてやったんやない、とっさよ。でも、その固まって抜ける形が面白うて、演出に持って帰った。それが、団子の始まりよ。
団子から、松が生まれた。本人いわく、ねぶたの山車のよう。提灯を寄せて、高く。小さかった松がだんだん大きくなって――「もう、スーパー松やな」と、本人は笑う。
よそがやってないものを、つくろう
スターを、立てない
その頃の阿呆連は、いまと違って、人数も少なかった。それでも、昔から変わらない考えがあった。スターを、立てない――ということだ。
スターは、立てん。これはずっと、絶対。顔やなしに、踊りと演出でええものをつくって、お客さんに感動してもらう。まず、感動が第一。
無料桟敷を、どんどん回った時代もある。ただで見てもらおう、って。有料はきちんと見せないかんけど、無料なら、自分も好きなことができる。プレッシャーもない。中に入って、どんどん楽しんで、感動を与えられんか、って。それが、原点になった。
まず、感動が第一
高張に、還る
踊りを退いたのは、体のことがあったからだ。倒れたのは、阿波おどりの、その最中だった。けれど、その最中だったからこそ、まわりがすぐに気づいて、助かった。戻ってこられたのも、踊りのリハビリ。阿波おどりに、生かされた。そうして、いちばん最初に立った高張へ、還ってくる。
還ってきた高張で、いまは、何を?
踊りを卒業してから、今度は高張の分野を、自分で開発しとる。誰もやってないからね。走って、後ろからドンと来たら、お客さんがワーッと湧く。短い高張を回したり、片手で持って踊ったり。「高張踊り」いうてね。自分の立ち位置は、自分で開発していく。踊りにも、企画にも、染み付いとる。これからも、誰もやってないことを、やりたいんよ。
高張を掲げて、一気に走り抜ける。桟敷がワーッと沸くその姿は、いまや阿呆連の冒頭を飾る、象徴的な見せ場のひとつだ。
自分の立ち位置は、自分で開発していく
人生、そのもの
踊りを退いても、なお連の一番前を歩く。その理由をきくと、返ってきたのは、理屈ではなかった。
引退しても、連に関わり続けられる。その理由は?
理由もない。理由は、ない。自然と、その中に入り込んどる。生かされたし、助けてもらった。十六歳からずっと関わって、子も孫も、みんな関わってる。当然のように、人生の中の、そのものやけん。
毎年毎年、「あ、この年代の夏が始まったな」って。二十歳の夏、二十五歳の夏。青春の時も、子が生まれて父になった時も、みんなある。その人生の中に、あの踊りが刻まれていった。毎年、その年の自分が「生きてるよ」って、桟敷いっぱいの人の中で、出したかった。人生そのもの、と思う。
嫌になったことは、ありませんか?
一度もない。今まで、全くなかったよ。死にかけとっても、なかった。死にかけとっても踊りたかったし、「踊れる」の一心で、リハビリした。高張を持って、お客さんにも「今日も来てくれて、ありがとうございました」って気持ちでいってる。「見てくれて、ありがとう」って。
一度もない。死にかけとっても、なかった
このひとは、なにでできてるか

十六歳で入って、五十四年。最初は高張、それから踊り。団子が、松が生まれた、あの時代を、この人は生きてきた。どの場所に置かれても、ただ好きだ、という曇りのない気持ちで、全力で。そして、その場所ごとに、自分のやり方を切り拓いてきた。
スターは、立てない。顔ではなく、踊りと演出で、感動を。これは、連が昔から重んじてきた考えだ。踊りを退いたあと、この人が還っていったのは、いちばん最初に立った高張だった。今度はそこを、誰もやらない「高張踊り」という開拓地に、自分で変えている。始まりの場所が、いま、いちばん新しい開拓地になっている。
――このひとは、阿波おどりとともに歩いてきた時間、でできている。それが、この人の人生、そのものだ。
どこにいても、ただ好きで、自分の道を拓いてきた。巡って、巡って、いちばん最初の高張へ。ひと巡りした人の、それが金言だ。
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