博多祇園山笠には、飾り山笠と舁き山笠があります。片方は10メートルを超える高さで動かず、もう片方は低くて走る。
なぜ2種類あるのか。答えははっきりしています。電線です。
3分で説明すると
- 読み方は「はかたぎおんやまかさ」
- 振興会が採る起源は仁治2(1241)年、聖一国師が施餓鬼棚に乗って祈祷水をまいたという説
- ただし福岡市の文化財の説明は「寛元元年(1243)」としていて、年が食い違う
- 文献上の初見は『九州軍記』の永享4(1432)年。造り物12台に人形を据えて舁いだとある
- ★昔は高さ10数メートルの飾り山を舁いでいた
- ★市内に電灯線が張られた後、丈の低い舁き山が生じ、飾り山は動かない「据え山」になった
- 追い山笠の由来は、貞享4(1687)年の町どうしのいさかい
- 文化財|昭和54年(1979年)2月3日に国の重要無形民俗文化財。ユネスコは2016年
読み方と正式名称
「はかたぎおんやまかさ」と読みます。
櫛田神社の夏祭りで、主催は博多祇園山笠振興会(櫛田神社内)。福岡市の文化財としての登録名は「博多祇園山笠行事」です。
祭の中で使われる「舁(か)く」という字は、肩に棒を乗せて運ぶことを指します。公式も「舁は常用漢字ではないため、普段は担ぐに置き換えられる」と説明しています。
いつから続いているか
起源については、公式が3つの説を併記しています。
振興会が採るのは1241年説
博多祇園山笠振興会が採るのは、この説です。
聖一国師が仁治二(1241)年に疫病退散のため施餓鬼棚に乗って祈祷水をまいたのが始まり
当時は神仏混淆の時代で、これが祇園信仰と結びついて山笠神事へ発展した、とされています。公式は「2023年は起源から782年」としています。
福岡市の文化財は1243年としている
ここで食い違いがあります。福岡市の文化財の説明では、同じ伝承の年が違います。
寛元元年(1243)、承天寺の開山聖一国師が、流行病の退散を祈って施餓鬼棚に乗り、博多津中を舁き回って浄水を撒いた
振興会は1241年、福岡市は1243年。2年ずれています。この記事ではどちらかに断定せず、両方を書いておきます。
なお聖一国師は承天寺の開山です。追い山笠のコースに承天寺の清道旗が立つのは、ここにつながります。
ほかの2説
- 櫛田神社の社伝|祇園大神(素盞嗚命)を勧請したのが天慶4(941)年。京都の御霊会との関連から、勧請後まもなく始まったという説
- 『九州軍記』に基づく永享4(1432)年起源説
『九州軍記』の記述は具体的です。永享4年6月15日、櫛田祇園社の祭りで沖ノ浜に神幸した際、山のような造り物12台に人形を据えて舁いだとあります。
この時点で12台。そして担いでいたことが分かります。
なぜ「祇園」なのか
櫛田神社の相殿に祀られているのが祇園午頭天王(神道では素盞嗚尊)だからです。
福岡市の説明では、平安時代の京都八坂神社の祇園御霊会が起源で、全国に広まった都市的な夏祭りの一つとされています。
京都の祇園祭と同じ系統の祭だということです。祇園祭の日程 とあわせて見ると、7月という時期が重なっていることにも意味が見えます。
★明治の電線で山笠が低くなった
この祭でいちばん面白い転換点です。福岡市の文化財の説明に、短く書かれています。
昔は10数メートルの飾り山を舁いでいた
昔は高さ10数メートルに及ぶ装飾豊かな飾山を舁いでいました
いま街に立っている豪華な飾り山笠。あれを担いで走っていたということです。
公式の「山笠の歴史」にも「古くは高さ12メートル前後の山笠をゆっくり舁いていた」とあります。高さがあるから、ゆっくりしか動けなかったはずです。
電灯線が張られて舁き山が生まれた
市内に電灯線が張られた後、丈の低い舁山が生じました
10数メートルの山笠は、電線の下を通れません。そこで低い山笠が作られた。これが舁き山笠です。
背が低くなったことで、速く走れるようになりました。櫛田入りを30秒前半で駆け抜け、約5kmを30分前後で走るいまの追い山笠は、この変化の先にあります。
飾り山は「据え山」になった
これにより飾山は動かない据え山となりました
走る役目を低い山笠に譲った飾り山は、立てて見せるものになりました。
いまの構造が、これで説明できます。
| 飾り山笠 | 舁き山笠 | |
|---|---|---|
| もとは | 同じもの(10数メートルの飾り山を舁いでいた) | |
| 電線のあと | 据え山(動かない) | 舁き山(丈が低く、走る) |
| いま | 7月1日から市内13か所で公開 | 7月10日から七流が舁く |
| 終わり方 | 15日未明に解体 | 追い山笠のあと各当番町で解体 |
2つに分かれたのではなく、1つが2つに割れたという順番です。
「流(ながれ)」とは何か
博多祇園山笠を支える単位です。
太閤町割りと百町
博多は戦国時代に焼け野原になりました。豊臣秀吉が復興を命じ、「太閤町割り」「博多町割り」と呼ばれる町割りが行われます(1587年)。
福岡市の説明によると、近世の山笠を支えたのは、太閤町割以来の「流」と呼ばれる町組織です。
七流七十三ヵ町
規模が具体的に書かれています。
博多津中は十流九十八町に柳町・寺町を加えた百町で、このうち七流七十三ヵ町が祭礼を担いました
そして運営の形も。毎年、六流から1本ずつ山笠を立て、一流が能当番を勤めるのが慣例でした。
流には年寄・中年・若手という年齢組織が組み込まれ、町組織と祭礼組織が一体で運営されてきました。町に住むことと祭に出ることが、同じことだったということです。
流の構成は変わってきた
いまの七流は土居流・大黒流・恵比須流・西流・東流・中洲流・千代流です。
ただし固定されてきたわけではありません。福岡市の説明では呉服町流・魚町流に代わって中洲流・千代流が加わったとされています。公式も4つの旧流が廃れ、戦後に2流、のちの再編で2流が加わったとしています。
なお七流なのは、奇数が縁起がよいとされたためだと公式が説明しています。
「流」という名の由来については2説あります。黒田官兵衛(如水)が仕えた播磨の「流」という池に由来する説と、川や旗を数える単位を長い町並みに当てた説です。
★追い山笠の由来は町どうしのいさかいだった
いまの追い山笠がどう始まったか。公式が「櫛田社鑑」を出典として、具体的な経緯を書いています。
貞享4(1687)年正月のことです。
- 竪町(恵比須流)に嫁いだ土居町(土居流)の花嫁が里帰りした
- 土居町の若者が余興で花婿に桶をかぶせるなどした
- 竪町の若者が怒って一触即発になった
- そして夏の祭で、恵比須流が昼食中の土居流を追い越そうと走り出した
- 土居流も負けじと走った
- これが評判を呼び、「追い山笠」に発展した
神事の由来としては、かなり人間くさい話です。
そしてこの「追い越す」という動きが、300年以上たったいまも5分間隔で次々と走り出す形に残っています。
年表で見る変遷
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天慶4(941)年 | 櫛田神社の社伝|祇園大神(素盞嗚命)を勧請 |
| 仁治2(1241)年 /寛元元(1243)年 |
聖一国師が施餓鬼棚に乗って祈祷水をまいたという伝承(振興会は1241年、福岡市は1243年) |
| 永享4(1432)年 | 『九州軍記』|造り物12台に人形を据えて舁いだ(文献上の初見) |
| 戦国時代 | 博多が焼け野原に。大内義隆が周防山口の祇園会に博多の6本を分けて作らせたという伝え |
| 天正15(1587)年 | 豊臣秀吉による「太閤町割り」。流の基礎になる |
| 寛文9(1669)年 | 文献上最古の番付(標題の記録) |
| 貞享4(1687)年 | 追い山笠のきっかけとなるいさかい |
| 嘉永元(1848)年 | 下東町が櫛田神社の清道旗を提案 |
| 明治31年 | 紛議のあと、各町が独自の法被を着るようになる |
| 明治26(1893)年 | 承天寺の前が正式な清道になる |
| 明治以降 | ★市内に電灯線が張られ、丈の低い舁き山が生じる。飾り山は据え山に |
| 昭和41年 | 町界町名整理。法被の町名表記が流によって分かれる |
| 昭和54(1979)年2月3日 | 国の重要無形民俗文化財に指定 |
| 2016年 | ユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」として登録 |
文化財としての指定
| 指定 | 名称 | 年月日 |
|---|---|---|
| 国指定重要無形民俗文化財 | 博多祇園山笠行事 | 昭和54年(1979年)2月3日 |
| ユネスコ無形文化遺産 | 「山・鉾・屋台行事」の一つとして | 2016年 |
保護団体は博多祇園山笠振興会、所在地は福岡市博多区上川端町1-41 櫛田神社です。
種別は風俗慣習(祭礼・信仰)。ユネスコには、秩父夜祭や高山祭などと同じ「山・鉾・屋台行事」の枠で登録されています。
服装も変わってきた
山笠といえば法被と締め込みですが、これも歴史があります。
- 江戸時代|舁き手は締め込み一本で半裸だった
- 明治31年|紛議のあと、各町が独自の法被を着るようになった
- 昭和41年|町界町名整理のあと、土居流・大黒流・恵比須流が旧町名の法被、西流が新町名の法被、東流・中洲流・千代流が流全員で統一した法被に
公式によると法被は40数種あります。どの町の法被かで、その人がどこの誰かが分かるということです。
足元も変わりました。舁き手は元々わらじか裸足で、地下足袋は大正下期以降と推定されています。地下足袋は大正初期に久留米の石橋徳次郎が発明し、三池炭鉱で人気になって全国に広まったものです。
歴史を知ってから見ると何が違うか
| 見るもの | 知らないと | 知っていると |
|---|---|---|
| 飾り山笠と舁き山笠 | 2種類の山笠がある | もとは1つ。電線で分かれた |
| 5分間隔で走り出す | 順番に出発する | 1687年の「追い越し」が形になったもの |
| 承天寺の清道旗 | コースの目印 | 聖一国師が開いた寺。起源の場所 |
| 七流 | 7つのチーム | 太閤町割り以来の町組織。年寄・中年・若手の年齢組織を持つ |
| 法被の柄が違う | デザインの違い | 明治31年以降に町ごとに作られたもの。40数種ある |
よくある質問
なぜ始まったのですか
博多祇園山笠振興会が採るのは、聖一国師が疫病退散のため施餓鬼棚に乗って祈祷水をまいたという説です。年は振興会が仁治2(1241)年、福岡市の文化財の説明が寛元元(1243)年としていて食い違っています。
なぜ飾り山は高く、舁き山は低いのですか
市内に電灯線が張られたからです。昔は高さ10数メートルの飾り山を担いでいましたが、電線の下を通れないため丈の低い舁き山が生まれ、飾り山は動かない据え山になりました。
博多どんたくとの違いは何ですか
別の祭です。どんたくは5月3日・4日でパレードと演舞台が中心、山笠は7月1〜15日で櫛田神社の奉納行事です。どんたくと山笠の違い に整理しました。
何年続いているのですか
1241年起源説で数えると、2026年で785年になります。文献上の初見である1432年から数えると594年です。
「流」とは何ですか
10数か町の集まりでできた町組織です。太閤町割り(1587年)以来のもので、近世には七流七十三ヵ町が祭礼を担いました。年寄・中年・若手という年齢組織を持ち、町組織と祭礼組織が一体で運営されてきました。
ユネスコに登録されているのですか
はい。2016年に「山・鉾・屋台行事」の一つとして登録されています。国の重要無形民俗文化財の指定は昭和54年(1979年)2月3日です。
まとめ|歴史の要点
- 読み方は「はかたぎおんやまかさ」。櫛田神社の夏祭り
- 振興会が採る起源は仁治2(1241)年の聖一国師の伝承。福岡市の文化財は1243年としていて食い違う
- 文献上の初見は『九州軍記』永享4(1432)年。造り物12台を舁いだとある
- ★昔は高さ10数メートルの飾り山を舁いでいた
- ★電灯線が張られて丈の低い舁き山が生じ、飾り山は据え山になった
- 「流」は太閤町割り(1587年)以来の町組織。近世は七流七十三ヵ町
- 流には年寄・中年・若手の年齢組織がある
- ★追い山笠の由来は貞享4(1687)年の町どうしのいさかい
- 江戸時代の舁き手は締め込み一本で半裸。法被は明治31年以降、いまは40数種
- 文化財|昭和54年2月3日に国指定、2016年にユネスコ
この記事の情報は2026年10月26日時点のものです。博多祇園山笠公式サイトの「山笠の歴史」「山笠うんちく」「舁き山笠紹介(令和八年度)」、福岡市の文化財「博多祇園山笠行事」、文化遺産オンライン「博多祇園山笠行事」、福岡市政だよりの博多祇園山笠のページを確認しました。聖一国師の伝承の年は、博多祇園山笠振興会が仁治2(1241)年、福岡市の文化財の説明が寛元元(1243)年としており、食い違っています。電線によって舁き山が生じ飾り山が据え山になったという経緯は、福岡市の文化財の説明によるものです。追い山笠の距離は公式が約5km、福岡市の文化財の説明が約4kmとしており、こちらも表記が分かれています。
