おわら風の盆でなぜ編笠をかぶるのか。
公式の答えは、意外なほど素朴です。「照れや恥ずかしさから人目を忍び、手ぬぐいで顔をかくして踊った」。それが編笠に代わったとされています。
信仰でも様式でもなく、恥ずかしかったという話です。
3分で説明すると
- 起点は元禄15年(1702)3月。町の文書を取り戻した祝いに三日三晩練り歩いた
- 公式は「いつ始まったのかはっきりしません」と明記している
- 編笠は照れ隠しから。最初は手ぬぐいだった
- 胡弓が入ったのは明治40年代。約300年の歴史の中ではかなり新しい
- 昔は尺八も使っていたが、現在は使われない
- いまの男踊り・女踊りは昭和4年に外部の振付師と画家が作った
- 八尾は蚕種・生糸・和紙・木炭の集散地で、その財力が祭を育てた
いつから続いているのか
約300年です。ただし公式は年を断定していません。
越中八尾観光協会の記述はこうです。「おわらがいつ始まったのか、明瞭な文献が残っていないためはっきりしません」
そのうえで、文献上の起点として挙げられているのが元禄15年(1702)3月です。典拠は「越中婦負郡志」とされています。
元禄15年に何があったか
町の権利書が戻ってきたのです。
加賀藩から下された「町建御墨付」を、八尾の町衆が町の開祖・米屋少兵衛(こめやしょうべい)家の所有から取り戻した。その祝いに三日三晩、歌舞音曲無礼講の賑わいで町を練り歩いたのが始まりとされています。
公式Q&Aでは同じ出来事を「町建ての重要秘密文書の返済を得た喜びの祝いとして三日間」と書いています。言い方は違いますが、指しているのは同じ文書です。
そのときの楽器は尺八が入っていた
公式の描写が具体的です。「どんな賑わいもおとがめなしと言うことで、春祭りの三日三晩は三味線、太鼓、尺八など鳴り物も賑々しく、俗謡、浄瑠璃などを唄いながら仮装して練り廻りました」
いまのおわらに尺八はありません。仮装もしません。300年前と今では、中身がかなり違うということになります。
春祭りが、どうして9月の祭になったのか
ここは公式の説明が3段階になっています。
「これをきっかけに孟蘭盆会(旧暦7月15日)も歌舞音曲で練り廻るようになり、やがて二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う『風の盆』と称する祭りに変化し、9月1日から3日に行うようになったと言われます」
整理すると、春祭り → お盆(旧暦7月15日)→ 二百十日。時期が2回ずれているわけです。
二百十日とは何か
立春から数えて210日目にあたる日で、昔から台風の厄日とされてきました。新暦では9月1日前後になります。
公式Q&Aは「立春から数えて二百十日にあたる日が台風の厄日とされてきたことから、五穀豊穣を祈る行事として『風の盆』という呼び名が付けられました」と書いています。
収穫前の稲が風の被害に遭わないようにという豊作祈願です。日程が9月1日から3日に固定されているのは、この厄日に合わせているからです。
「盆」はお盆ではないという説
公式はもうひとつの可能性も書いています。
「富山の地元では休みのことを『ボン(盆日)』という習わしがあったと言われます。種まき盆、植え付け盆、雨降り盆などがあり、その『盆』に名前の由来があるのではないかとも言われています」
種まき盆、植え付け盆、雨降り盆。並べてみると、農作業の区切りごとの休みという意味合いが見えます。この説だと「風の盆」は「風の日の休み」になります。
「おわら」の語源は3つある
公式が3説を並べています。どれかに決めていません。
- 大笑い節説|文化9年(1812)の秋、遊芸の達人たちが滑稽な変装をして新作の謡を唄いながら町練りを行い、謡のなかに「おわらひ」という語を差し挟んで唄ったのが「おわら」に変わった
- 大藁節説|豊年を祈り、藁の束が大きくなるようにとの思いから「大藁」が転じた
- 小原村説|八尾近在の小原村出身の娘が女中方奉公中に、得意の美声で歌った子守唄が起源
唄は七五調です。大笑い節説は、その七五調の唄に合いの手として「おわらひ」を挟んだという話なので、唄の構造と結びついている点がほかの2説と違います。
年表で見る300年
公式の記述から拾える出来事を時系列に並べます。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 元禄15年(1702)3月 | 町建御墨付を取り戻した祝いに三日三晩の町練り |
| 文化9年(1812)秋 | 新作の謡に「おわらひ」を挟んで町練り |
| 明治30年代 | 松本勘玄が20歳の頃に八尾へ来る(輪島塗の旅職人) |
| 明治40年代 | 勘玄が胡弓を取り入れる |
| 明治44年 | 北陸タイムス千号記念のイベントで芸者たちが即興で踊る(踊りの起点) |
| 大正2年 | 北陸線が直江津まで開通。7県連合共進会で豊年踊りの原型ができる |
| 大正時代の中頃 | 江尻豊治が一息で唄いきる唄い方を完成させる |
| 大正9年 | おわら研究会ができ、唄と踊りを改良。豊年踊りが現在の形になる |
| 昭和4年 | 越中八尾民謡おわら保存会結成。四季の踊りが完成し東京三越で披露 |
| 戦時中 | 「踊ったら国賊」という時代背景のなかで受け継がれる |
この表で目につくのは、いまのおわららしさが明治後半から昭和初期の約20年で作られていることです。300年のうちの、ごく後半です。
大正2年に何が決まったか
豊年踊りの形です。
北陸線が直江津まで開通した記念に、富山県が東京都をはじめ7県の連合共進会を開きました。9月1日から50日間という長いイベントで、ここで「おわら」や「麦屋節」が踊られました。
公式はこう書いています。「その際、江尻せきが中心になり、芸者たちと歌詞や伴奏を練り直しました。『宙返り』は深川踊りから、『稲刈り』はカッポレから取り入れられたのもこの頃です」
宙返りは深川踊り、稲刈りはカッポレ。いまの豊年踊りの動きの一部は、よその踊りから借りてきたものだということになります。結果は「これまでの芸者の色っぽくて難しい踊りから、非常に単純で美しい『豊年踊り』に仕上がりました」。
昭和4年に何が決まったか
男踊りと女踊りです。
きっかけは東京三越での富山県の物産展示即売会でした。アトラクションの呼びかけがあり、富山県の要請で医師の川崎順二を中心に修正が行われました。
- 踊り|若柳吉三郎(日本舞踊)
- 唄|常磐津の林中
- 四季の歌詞|小杉放庵(画家・俳人)
注目すべきは滞在期間です。「若柳は40日間八尾に滞在し、八尾の情感を体に溜め、熟させて、5月に『四季の踊り』が仕上がりました」。東京三越で初めて芸者が披露し、きれいな踊りと大人気になりました。
踊りそのものの違いは おわら風の盆の女踊りと男踊り に書きました。
胡弓はいつ入ったのか
明治40年代です。公式は「比較的新しい」と断っています。
入れたのは松本勘玄という人です。経歴が変わっています。
- 輪島塗の旅職人だった
- 八尾に来たのは20歳の頃、明治30年代
- 大阪で浄瑠璃修行をしていたことがあり、義太夫、端唄、長唄、小唄とあらゆる三味線音楽に通じていた
そして公式はこう続けます。「ある日八尾に越後瞽女の佐藤千代が訪れ、勘玄は胡弓に出会います。以来、おわらの唄と三味線に胡弓を合わせようと、日夜研究に励みました。その苦心の結果現在の哀愁を帯びた独特の旋律が生み出されました」
尺八が落ちて、胡弓が入った
元禄15年の記述には尺八がありました。いまはありません。
公式Q&Aは「昔は尺八も使用されていたようですが現在は使われていません」と書いています。
つまり楽器の構成は入れ替わっているわけです。いまの地方(じかた)は唄い手・囃子・三味線・太鼓・胡弓。このうち胡弓がいちばん後から入り、尺八が抜けたことになります。
現地では「目立ってはいけない楽器」
おわらの象徴として語られるのが胡弓です。ところが八尾での扱いは逆です。
公式の記述は「八尾では『目立ってはいけない楽器』として教えられる楽器です」。
役割も三味線が旋律を弾き、胡弓が追うという順序です。主役ではありません。それでも「不思議なことに他の民謡や邦楽ではほとんど使われません」という独自性があり、民謡事典でも「越中おわらに欠かせない楽器」と紹介されています。
唄と楽器については おわら風の盆の歌詞と意味 に詳しく書きました。
なぜ編笠で顔を見せないのか
公式Q&Aに項目があります。答えはこうです。
「風の盆の町回りが始まった当初は、照れや恥ずかしさから人目を忍び、手ぬぐいで顔をかくして踊ったといわれますが、それが編笠に代わったといわれています」
ポイントは2つあります。
- 理由は照れと恥ずかしさ
- 最初は手ぬぐいで、あとから編笠になった
なお公式は「顔を完全に隠す」とは書いていません。「編笠の間から少し顔を覗かせたその姿は、実に幻想的であり優美で」という表現です。隠しきらずに少し覗かせるところが見どころだとしています。
黒い帯も、あり合わせから始まった
女性の帯が黒いのにも同じ種類の由来があります。
「その昔、おわらの衣装を揃えた際、帯まで手が回らなかったので、大多数の人が持っていた冠婚葬祭用の黒帯を用いて踊った名残です」
編笠も黒帯も、そのときあったもので間に合わせた結果が様式として残ったことになります。
町の娘は、もともと踊らなかった
「人目を忍ぶ」という感覚は、踊り手の身分にも表れています。
公式はこう書いています。「当時『おわら』は芸者が踊り、町の娘は踊りませんでした。『女踊り』は鏡町の芸者が踊り、『男踊り』は『甚六会』が踊りました。娘を人目に触れさせなかったし、踊りに出すのはもってのほかでした」
変えたのは、ここでも川崎順二です。「しかし、医者で名門の川崎順二は、5人の娘を率先して踊りに出しました。『あの川崎先生の娘さんが踊っているのなら』ということもあって、一般の人も踊るようになったといわれています」
5人の娘。地元の名士が自分の娘を先に出すことで、町の空気を変えたという話です。
なぜ有名になったのか
ここは2つの層に分けて読む必要があります。公式が書いていることと、一般に語られていることが違うからです。
公式が書いているのは、昭和初期の文化人招致
越中八尾観光協会が「おわらが大きく変化を迎えた」として挙げるのは大正期から昭和初期です。
「昭和4年に結成された『越中八尾民謡おわら保存会』初代会長の川崎順二の文化サロンを中心とした働きで、各界の文人が次々と八尾に来訪しました。おわらに一流の文化意識を吹き込んだ文化人には、宗匠・高浜虚子、作家・長谷川伸もいたと言われています」
歌詞についてはさらに踏み込んだ記述があります。
「越中おわら中興の祖といわれる初代おわら保存会長の川崎順二が、ともすれば野卑に陥りがちだった当時のおわら歌詞を立て直そうと、昭和初期に小杉放庵や野口雨情、長谷川伸、佐藤惣之助、川路柳虹等の著名な文人墨客らを私財を注ぎ込んで八尾に招き『八尾四季』をはじめとする秀歌を詠ませ、現在のおわら歌詞の基礎を築いたといわれています」
私財を注ぎ込んで。医師が自分の金で中央の文人を呼び、歌詞を作らせた。これが公式が語る「おわらが一流になった理由」です。
その文人たちの歌は町に残っています。「その時代に生きた文芸人らの想いは今、歌碑となって町内のあちらこちらで息づいています。散歩がてら町の『おわら名歌碑』めぐりをして廻るのもおわらの楽しみの一つです」
一般に語られるのは、1980年代の小説
いっぽうで、観光の規模が変わったきっかけとして広く語られているのは高橋治の小説『風の盆恋歌』です。
日本経済新聞は、この作品が1984年に「小説新潮」に発表されたとし、そのときの原題は「崖の家の二人」だったと書いています。
ただし注意点があります。越中八尾観光協会の公式ページには、小説で有名になったという記述が見つかりません。刊行年についても二次情報で1985年・1987年と分かれています。この記事では「1984年に『小説新潮』に発表された」という日経の記述までを事実として扱い、それ以上は書きません。
八尾はなぜ、これだけの祭を持てたのか
町が豊かだったからです。公式の書き方は具体的です。
「江戸時代、八尾の町は蚕種、生糸、和紙、木炭など山あいの生産物を売買する集散地として栄えました。この町の財力は、富山藩の財政蔵として御納戸所(おなんど)と言われ」
蚕種・生糸・和紙・木炭の4つ。山の産物の集散地であり、富山藩の財政を支える蔵と言われるほどの町でした。
春にはもうひとつ祭がある
その財力の証拠が越中八尾曳山祭です。
公式は「1740年代から受け継がれる、八尾の春の祭礼行事『越中八尾曳山祭』は、生糸、蚕種、和紙、木炭の生産と取引で栄えた八尾商人の繁栄の象徴です」と書いています。
起源は寛保元年(1741年)。八尾八幡社の例祭で上新町が花山を作り、その上に富山藩より拝領した在原業平の人形を乗せて曳き廻したのが始まりとされています。開催は5月3日です。
秋のおわら(元禄15年起点)と春の曳山(1741年起点)。同じ町が、豪華な祭を2つ持っていることになります。
2月に「おわら大会」をやっていた理由
町の産業と祭のつながりが、いちばんはっきり出るのがこの話です。
大正9年におわら研究会ができたあと、毎年2月に鏡町の明治座で「おわら大会」が開かれていました。なぜ2月なのか。
「2月というのは長野県や群馬県の製糸工場に出稼ぎに行っている女性が帰ってくる時期で、女性の人口が1番多い月でした。『おわら』は女性中心だったことがうかがわれます」
出稼ぎの帰省時期に合わせて祭をやっていたのです。蚕種・生糸の町から製糸工場へ人が出て、冬に帰ってくる。その周期が祭の日取りを決めていました。
歴史を知ってから見ると、何が変わるか
見るものが増えます。具体的には次の4つです。
- 編笠|照れ隠しから始まった。隠しきらずに少し覗かせるのが様式
- 胡弓|いちばん新しい楽器で、現地では「目立つな」と教えられる。三味線を追う音を探す
- 豊年踊り|宙返りは深川踊り、稲刈りはカッポレから来ている
- 男踊り・女踊り|舞台のために作られた踊り。振付師の名前が残っている
どこで何を見るかは おわら風の盆はどこで見るか|11町の違い にまとめました。
よくある質問
Q. おわら風の盆の歴史は何年ですか。
A. 約300年とされます。文献上の起点は元禄15年(1702)3月です。ただし公式は「いつ始まったのか、明瞭な文献が残っていないためはっきりしません」と断っています。
Q. なぜ顔を見せないのですか。
A. 公式Q&Aは「照れや恥ずかしさから人目を忍び、手ぬぐいで顔をかくして踊った」のが編笠に代わったと説明しています。最初は手ぬぐいだったという点が見落とされがちです。
Q. 有名になった理由は何ですか。
A. 公式が挙げるのは昭和初期に川崎順二が私財で中央の文人を招き、歌詞と踊りを作り直したことです。観光の規模が変わったきっかけとしては高橋治の小説『風の盆恋歌』(1984年に「小説新潮」に発表)が広く語られますが、公式ページにはその記述がありません。
Q. 胡弓はいつから使われているのですか。
A. 明治40年代です。松本勘玄が取り入れました。公式Q&Aでは「明治後期から大正初期にかけて」とも書かれており、ページによって精度が違います。
Q. 昔と今で違うところはありますか。
A. 元禄15年の記述には尺八と仮装がありますが、どちらも現在はありません。逆に胡弓は明治40年代に入ったものです。
Q. 誰が踊っていたのですか。
A. もともとは芸者です。女踊りは鏡町の芸者、男踊りは「甚六会」が踊り、町の娘は踊りませんでした。川崎順二が5人の娘を踊りに出したことから一般の人も踊るようになったとされています。
Q. 八尾はどんな町だったのですか。
A. 蚕種・生糸・和紙・木炭の集散地で、富山藩の財政蔵(御納戸所)と言われた町です。春には越中八尾曳山祭(寛保元年起源・5月3日)もあります。
まとめ|おわらの歴史の要点
- 起点は元禄15年(1702)3月、典拠は「越中婦負郡志」。公式は年を断定していない
- 時期は春祭り → 旧暦7月15日のお盆 → 二百十日と2回ずれた
- 二百十日は立春から210日目の台風の厄日。日程固定の理由はここ
- 語源は大笑い節説・大藁節説・小原村説の3つ。公式は決めていない
- 編笠は照れ隠し。最初は手ぬぐい。黒帯も冠婚葬祭用のあり合わせ
- 胡弓は明治40年代に松本勘玄が入れた。尺八は使われなくなった
- 踊りの起点は明治44年、豊年踊りの形は大正2年、男女の踊りは昭和4年
- 公式が語る「有名になった理由」は川崎順二の文化人招致。小説の話は公式に記述がない
- 八尾は蚕種・生糸・和紙・木炭の町。2月のおわら大会は出稼ぎの帰省時期に合わせていた
9月1日から3日は八尾町内の宿がごく少なく、公式も富山市内の宿を案内しています。歴史の話は夜の町流しと競演会の両方に効くので、泊まる前提のほうが無理がありません。
→ おわら風の盆2027の日程|9月1〜3日・3日目だけ19時開始
→ おわら風の盆の女踊りと男踊り/おわら風の盆の歌詞と意味
→ おわら風の盆はどこで見るか|11町の違い/おわら風の盆の宿
→ 富山のモデルコース
この記事の情報は2026年10月25日時点で、越中八尾観光協会の「おわらの歴史:おわら風の盆の来歴」「おわらの歴史:唄に寄り添う響き」「おわらの歴史:踊りの変遷」「おわら風の盆Q&A」「越中八尾曳山祭」「八尾曳山会館」各ページ、および日本経済新聞2014年9月13日の記事を確認したものです。おわらの開始年、語源、有名になった理由については公式が断定していません。『風の盆恋歌』の刊行年は資料によって分かれています。
